安政五年創業 大阪難波 浪芳庵

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未来へ続く歩み

未来へ続く歩み - 2

第二次創業期昭和30年~39年代(1955年~1964年)

焼き菓子と赤飯が人気に。

 東京オリンピックが終わり、お祭りムードも冷めた昭和40年(1965年)。この年は大阪府下の菓子製造事業の振興と発展を目的に、「大阪府菓子工業組合」が発足し、井上幹三が初代理事長に選任されました。
  この頃になると、お店では従来の生菓子のほか、三笠饅頭(ドラ焼)、栗饅頭といった焼き菓子がよく売れるようにになり、またお赤飯の人気も高く、多くの結婚式場やホテルに納入しています。現在「浪芳庵」の専務である井上文孝は、幼少だった当時に見た光景を「新年になると家族みんなで夜遅くまで赤飯を折り箱に詰めていた」と記憶しています。

  • 昭和41年 ビートルズが来日。

「虹のまち店」オープン。

 昭和42年(1967年)、大阪市によって進められていた区画整理の交渉にあたるため、「浪芳」五代目当主に井上源造が就任。その2年後、区画整理に伴う千日前筋拡幅のため、本店を難波新地4番町(南区)へ移転しました。翌45年(1970年)にはそれまで本店裏で稼働していた工場を浪速区北高岸町に移設し、より生産性の向上を図ることができました。
  またこの年には、千日前筋の地下に「虹のまち」が開業。同時に現在も残る「浪芳虹のまち店」(現なんばウォーク店)もオープンしました。ちなみに44年(1969年)には梅田に阪急三番街(川のある街)も開業しています。

  • 昭和43年 川端康成氏がノーベル文学賞を受賞。
  • 昭和44年 アポロ11号が月面着陸に成功。

万博の風を受け、羽ばたく「御堂鳩」。

 昭和45年(1970年)は、大阪の歴史の中でも特筆されるべき万国博覧会が開催されました。
この万博を記念して、浪芳ではじめての大阪土産となる「御堂鳩」を発売。当時、大阪市のメインストリートである御堂筋にたくさんの鳩がいたことが創作のきっかけになりました。万博の開催期間中は多くの人が大阪を訪れ、和菓子業界全体がたいへん賑わったものです。

御堂鳩。150周年を記念し、2008年に復刻

  • 昭和45年 大阪・千里で日本万国博覧会が開催。

支えとともに乗り越えた、

 高度成長が著しい日本経済にとって、オイルショックはまさに青天の霹靂でした。昭和48年(1973年)にはじまる第一次オイルショックでは、風評も手伝い、商品の棚からトイレットペーパーがなくなるというパニックに。そして、昭和50年(1975年)2月には完全失業者が100万人を突破するなど、不況が深刻化してきました。
  社会情勢に対して、菓子業界も無関心ではいられません。しかし、浪芳ではそうしたなかでも、いままでどおりにお菓子をお客様にお届けすることができました。当時のことを知る職人は「オイルショックであっても仕事に苦労した思い出はない」といいます。それは、そんな非常時であっても業者の方々から、変わらず最高品質の原材料を提供していただけたからです。当時好例だった先代も、方々に足を運んでお願いに回りました。このとき私たちが強く感じたことーそれは、自分たちの力でお菓子を作っているのではない、さまざまな方々の支えがあってこそだということです。

  • 昭和48年 第一次オイルショックが起こる。
  • 昭和50年 ベトナム戦争が集結。
  • 昭和51年 ロッキード事件が発覚。
  • 昭和52年 気象衛星ひまわりの打ち上げに成功。
  • 昭和54年 インベーダーゲームが大ブーム。
  • 昭和60年 阪神タイガースが21年ぶりに優勝。

まさか、が現実に。

 昭和63年(1988年)、老朽化に伴い本店を新築。翌年に大阪市制100年を記念して栗饅頭「浪花百歩」を発売し、浪芳のベストセラーになりました。平成6年(1994年)、井上源造が大阪府生菓子協同組合の理事に就任。その3年後の平成9年(1997年)、大阪ではJR東西線、大阪ドーム、クリスタ長堀、フェスティバルゲートなどのビッグプロジェクトが続々と開業し、景気の上げ潮ムードが高まる中、11月に北海道拓殖銀行が突然の破綻。浪芳のメインバンクだったこともあり、資金繰り等で思わぬ非常事態に。他の金融機関からの借入れが困難だったため、私財の株や貯金を経営に投入することで、戦後以来の苦境をなんとかしのぎました。このとき、多くの関係者から応援や励ましを頂戴したことを、一同胸にとどめています。

  • 昭和64年 昭和天皇崩御。
  • 平成元年 大型間接税・消費税が施行される。
  • 平成3年 湾岸戦争が終結。
  • 平成5年 初のプロサッカー・リーグ「Jリーグ」が開幕。
  • 平成7年 阪神・淡路大震災が発生。

ピンチのあとにチャンス来る。

 拓殖銀行の破綻の衝撃が冷めきらない平成10年(1998年)3月、専務・井上文孝により試行錯誤を重ねてきた新商品「みたらしとろとろ」を発売。この商品によって、夏の代表商品だったみたらし団子が一年を通じて売れるようになり、また女性から食べやすいと評判を得たことで、すっかり浪芳の看板商品に。また同じこの年に、株式会社浪芳と浪芳商事株式会社を合併し、浪芳庵株式会社に社名変更いたしました。

新築された本店。当時は1階を店舗としていました。

 「みたらしとろとろ」はその後百貨店の催しなどでも高い評価を受け、平成18年後期、19年前期、20年前期に「なんばウォーク売り上げ伸び率一位店舗」という栄誉にも大きく貢献しました。

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