安政五年創業 大阪難波 浪芳庵

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未来へ続く歩み

未来へ続く歩み - 3

高度経済成長と歩みをともに 昭和40年~平成10年(1965年~1998年)

念願の製餡所、ついに完成。

 昭和30年(1955年)12月10日。この日、大阪府生菓子協同組合にてかねてから計画されていた生餡(なまあん)の共同生産設備が完成し、ついに稼働を開始。これを受け、製餡業界は一斉に10%以上もの値下げを行うという効果をあげました。配達に使う車は単車が一台と自転車がわずか四台。設備の建設にあたり私財を投入した井上幹三をはじめ幹部たちの苦労も多かったですが、組合員に安定した価格と品 質の生餡が供給されることにより、大阪の和菓子業界はより発展していくことになりました。

苦労の末に完成した製餡所。大阪の製餡業界にとっては悲願成就となりました。(写真提供:大阪府生菓子協同組合)

  • 昭和30年 神武景気がはじまり、洗濯機やテレビが急激に普及。

金の卵はどこにいる。

 終戦から10年を経て、高度経済成長が幕を開けた昭和30年代。大阪では通天閣が再建され、翌年の経済白書では「もはや戦後ではない」といわれた時代。日本全体で人手不足が叫ばれ、若者たちが「金の卵」としてもてはやされていた頃、浪芳でも人材不足を補うべく、地方から集団就職で大阪にやってきた若者を従業員として雇用するようになりました。
  当時は宮崎県からやってきた、中学校を卒業したばかりの少年たちが工場の上の部屋で生活し、住み込みで働いていました。しかし、他のお店や企業と同様に、まだあどけない顔をした少年たちはホームシックになったり、他の仕事に移ったりして、なかなかお店に定着しなかったのが悩みでもありました。やがて店舗が移転し、アパートに住み込んでもらったりしながら、昭和47年頃まで住み込みというかたちは残っていました。

  • 昭和31年 東海道線が全線電化。社会的には最後のソ連引き上げが話題となる。

和菓子を思う、献菓を半世紀。

 昭和32年(1957年)に生菓子協同組合の発案で、各支部にて養老院や児童施設に慰問を開始。これを契機に組合の活動が広く知られるようになりました。同じ年の11月には井上幹三が「浪芳」四代目の当主に就任。昭和34年(1959年)2月は建国記念日に合わせて菓子を奉納する「橿原神宮献菓奉賛会」を設立し、以後今日まで毎年献菓を続けています。また、お菓子の神様である橘本神社と、餅の神様・小野神社のほか、林神社、近江神宮、明治神宮、平安神宮にも献菓を続けています。
  いくつかの時代を経て和菓子づくりを続けてこられたこと、また多くの方に愛されてきたこと、感謝の思いに終わりはありません。

林神社での献菓奉賛会。(写真提供:大阪府生菓子協同組合)

  • 昭和32年 南極に昭和基地が建設されたほか、国産ロケットが打ち上げに成功。
  • 昭和33年 NHKのテレビ受信契約数が100万台を突破。
  • 昭和34年 皇太子(現天皇陛下)と正田美智子さまがご成婚。
  • 昭和35年 カラーテレビの本格的放送がスタート。

地下の街に、菓子が咲く。

 大阪市の主要ターミナル(JR大阪駅・各線梅田駅、各線難波駅)には地下街が大きく広がっていますが、戦後大阪の地下街第一号は昭和32年(1957年)に開業したナンバ地下センター(現なんなんタウン)です。続いて、昭和38年(1963年)にウメダ地下センター(現ホワイティうめだ)が開業しました。「浪芳」もオープニング店舗としてウメダ地下センターに出店しましたが、街開き当日の地下街はものすごい人で、あろうことか店に搬入する

浪芳ウメダ地下センター店の様子。

予定であった饅頭を、地下街入口でひっくり返してしまったのです。そして、それが取材記者の目にとまり、全国紙の社会面に大きく取り上げられるというほほ笑ましい珍事もおこりました。また、翌年には戦後初の国内夏季オリンピックとして、東京オリンピックが開催されました。

  • 昭和36年 中学校で一斉学力テストが実施される。
  • 昭和37年 東京都が世界最初の1千万人都市になる。
  • 昭和38年 国鉄大阪駅前に日本発の横断歩道が完成。
  • 昭和39年 東海道新幹線が開通する。東京オリンピックが開幕。日本経済の高度成長が加速。

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